Parsleyのリハビリ部屋

ちょっと人生に疲れたParsleyが、リハビリのつもりでつらつら言葉を重ねていくブログです。

「できることを、ありったけ」な物語には、必ず人の気持ちを揺さぶる力があるという話

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『むこうのくに』

「いつもの君と同じで良いじゃない」

「いつもの俺」

「つまり、ありったけ、ってこと」

  

 これは、『ゴブリンスレイヤー』第10巻の、牛飼娘とゴブスレさんとのやりとりの一節。女神官が巻き込まれたトラブルに、「手を貸してやりたいけれど手段がわからん」と悩むゴブスレさんに、何でもないことのように言って笑う牛飼娘に、この物語の本質が詰め込まれている。

 

ゴブリンスレイヤー10 (GA文庫)

ゴブリンスレイヤー10 (GA文庫)

 

 

 『ゴブリンスレイヤー』の世界は、「名もなき者」で紡がれている。勇者や国王ですら名は出されない。つまり「役割」「ロール」に過ぎない。だからこそ、たとえ小さな冒険であっても、当人にとっては「できることを、ありったけ」で臨むことを求められ、「チート」と思われがちな勇者パーティーでも変わらない。そうでなければ「死んでしまう」からだ。この話がここまで支持されるのは、その「ありったけ」にあるのだというのが、私の考えだ。

 

 同じことは、個人的にイチオシの『真の仲間じゃないと勇者のパーティーを追い出されたので、辺境でスローライフすることにしました』にも言える。

 

parsley-reha.hateblo.jp

 

 主人公のレッドは妹で「勇者」のルーティーの「導き手」という加護のため、コモンスキルを限界まで高めている。剣は達人級で博識、薬の調合を生業にしていて、料理だってできる。こう並べると「チート」っぽいが、本職には敵わない器用貧乏。それを自覚しつつそれでも努力に努力を重ねた結果「スローライフ」にたどり着いた。その丁寧なストーリー展開と描写も、ざっぽん氏の「ありったけ」が詰め込まれているように思える。

 

 転生して無双するといった物語が大量に生まれて消費されていることについて、批判するつもりはまったくないのだけど、 どうもここ最近、静かに空気が変わっているように感じられる。言葉にするのは簡単ではないが、もっと「俺たち」に寄り添った話が求められているように感じられてならないのだ。

 

 例えば、『ふらっとヒーローズ』で連載中で、8月12日に第一巻が刊行となる熊田龍泉先生の『それでもペンは止まらない』は、「これは未だ報われぬ者たちへの讃歌である」と謳われている。

 

それでもペンは止まらない(1)

それでもペンは止まらない(1)

  • 作者:熊田龍泉
  • 発売日: 2020/08/12
  • メディア: コミック
 

 

 主人公の美空輝子は、33歳の中堅漫画家。美人だけど男っ気はまったくなく、編集者やアシスタントたちに振り回されっぱなしでも、必死に仕事をこなしている。そして、輝子だけでなく、他の登場人物たちも彼女たちなりに精一杯の人生を戦っている。

 他者から見れば皆が「人生の脇役」かもしれないけれど、当人たちにとっては真剣で切実な毎日だというのは、たしかに現代に生きる「私たち」に通じるところがあるし、その姿は「かっこいい」。そうすると「私たち」も誰かに「かっこいい」と思われるかもしれない可能性に気付かされる。

 

 翻ると、2020年に生きる私たちには余裕がない。長らくデフレが続いて給料は上がらないし、少子高齢化で老後がどうなるのか誰もが不安を抱えているし、メディアもそれを煽っている。そこにやってきた新型コロナウイルス感染症で、明日への不透明さはさらに増した。世界はあまりに複雑すぎて、中には途方にくれる人もいるだろう。

 そんな中でも、自分たちは「できることを、ありったけ」で行くしかないんだ、と思わされたのは、フルリモートで企画から公演まですべてこなす『劇団ノーミーツ』の第二回公演『むこうのくに』を見たからだ。

 

no.meets.ltd

 

 『むこうのくに』のストーリーについては、noteに自分も含めて様々な方々が感想を寄せているので、こちらをご覧頂ければと思うが、ざざっと説明すると仮想空間が発達した2025年を舞台に、自分が開発したAIの「友達」を探し求める青年を中心とした群像劇。近未来感がありつつも、現在の(特にネットの)社会問題にも通じる話でもあり、コミュニケーションの本質をテーマにしているとも言えるだろう。

 個人的に驚かされるのは、『劇団ノーミーツ』のスピード感。4月に活動を開始してから、まずはTwitterなどに2分程度の作品を発表して、5月の旗揚げ公演『門外不出モラトリアム』では、フルリモートで2時間以上の演劇をZoomを用いてやり遂げてみせた。

 そこからわずか2ヶ月後の『むこうのくに』では、単にZoomを使うのではなく、仮想空間『ヘルベチカ』の世界観を構築。観客も参加者であるようなアートワークを実現させた。

 

 このように記すと、「さぞかし天才が集結したのだろう」と勘違いしがちだ。だが、出演者のひとりで演出助手・脚本助手を務めたオツハタさんが、このようにツイートしている。

  

 

 「人間、誰しもが有能なところも無能なところもある」というのは佐藤大輔御大の作品に通底するものだが、『むこうのくに』でも、ひきこもりニートっぽいマナブが超絶なハッキング技能を持っていたりするし、理念の実現に燃える政治家秘書が「間違える」こともある。そういった演者の「リアル」を引き出したのは、間違いなく関わったすべてのスタッフの方々が「できることを、ありったけ」やったからだ。

 確かに彼らは「凄い」けれど、その「凄さ」は到達不可能なものじゃない。実際に活用されている技術は既にあるもので、その組み合わせ、つまり知恵によって作り上げたものだ。『ゴブリンスレイヤー』的にいえば、「手はある。常に、皆がいれば」といったところだろうか。

 

 「できることを、ありったけ」が伝わる作品には、人を魅了する力が宿るし、それは現実でも一緒だ。誰もが余裕のない今を必死に生きている。それを信じること。そして自分も限られたリソースで「ありったけ」をぶつけること。そういった「物語」こそが支持されるし、後世にも残るのではないかと、楽観的かもしれないけれど思いたいし、そうあるべきなのだと信じている。