Parsleyのリハビリ部屋

ちょっと人生に疲れたParsleyが、リハビリのつもりでつらつら言葉を重ねていくブログです。

親愛なる複雑で繊細な世の中の片隅で生きる者たちへ

 お仕事柄、主にWebで発表されているマンガを大量に読んで、独断と偏見で紹介記事を書くお仕事をしているわけなのだけど、ちょっと気になるブログエントリーを拝読したので簡単にメモしておこうと思う。

 

kangaegotochu.hatenablog.com

 

 自分が紹介記事を書く際には、基本的に「誰の目にも触れる」ということを想定していて、その上で読者に何らかの「気づき」を得てもらうことを期待はするけれど、その作品が「なんか合わない」という人も当然いるだろうな、ということは常に念頭に置かざるをえない。特にLGBTを扱う作品に関しては、異性愛を扱う作品よりも一段注意の度合いを高めるようにしているのが現実だったりする。

 

 さて。今回の「レズビアンの透明化」という話は、「セクシャルマイノリティコモディティ化」とする方がより実態に近いのではないか、という感想を持っている。これは、2010年以降にネットで当事者が発信する機会が増えたし、それと共にセクシャルマイノリティを題材にする作品も飛躍的に多くなっている。当然、多様性も出てきて同じ嗜好でもスタンスが違う人が現れている。ただ、これは健全だし何ら否定されることではないだろう。

 

 とはいえ、「自身のセクシャリティーを特別視しないでほしい」という傾向は高まっているように思える。自分は元参議院議員でゲイであることをカミングアウトした松浦大悟氏にインタビューをさせて頂いたのだけど、その際に感じたのは「セクシャルマイノリティの中でも世代による断絶がある」ということだった。

 

getnews.jp

 

 例えば、自分の世代なら尾崎南先生の『絶愛-1989-』は教養だと思うし、ヒラリー・スワンク主演の『ボーイズ・ドント・クライ』を観てトランスジェンダーの生きる厳しさを感じたりしている。そして、セクシャルマイノリティーであることをカミングアウトすることの「重さ」について、当事者でなくても多少は理解が及ぶ。が、そういった文脈が2020年に継承されているのかどうかと言えば、「?」がつく。

 とりわけ「性自認」を明確にしたいという人が、その「明確にできる自由」を享受するまで、先人がどのように戦ってきたか、「知らない」とまで言わないけれど「敬意が足りないのでは」という疑問を覚えるケースが増えているようにも思える。ただ、これは批判的に捉えた見方であって、そういうことを意識せずに「性自認」をオープンにできる社会になりつつあるというのは喜ぶべき変化であるということも付け加えておきたい。

 

 実際に、自分の知り合いにもゲイやレズの人はいるし、彼ら彼女らがそれで特別視されているようには感じられない。異性愛者と同性愛者、バイセクシャルが偏在して社会に存在しているということは、2020年の現在地だと思うし、それが多くの創作作品にも現れているようにも思える。

 だからこそ、「性自認」を明確にするのか、それとも曖昧にするのかといった議論が巻き起こるわけで、これが15年ほど前ならば考えられないことだった。だから、議論が起こる「そのもの」が社会の進歩と捉えることができるだろう。議論している当事者の皆さんにとってはめっちゃカロリー高くて辛いとも思うけれどね!

 

 願わくば、性嗜好の多様性を認めるのと同じように、個々のスタンスについて認め合えるような人が増えて欲しいと思うし、メディアとしても様々な作品や「考え方」を肯定も否定もせずにピックアップしていくことが求められている、というのが自分自身の考えでもある。そんなわけで、単純に「百合」の中のぶつかり合いと捉えるのでなく、個々人のスタンスの違いが顕在化したものと見る方が、より普遍的に整理できるのではないか、という感想を持った。