親愛なる複雑で繊細な世の中の片隅で生きる者たちへ
お仕事柄、主にWebで発表されているマンガを大量に読んで、独断と偏見で紹介記事を書くお仕事をしているわけなのだけど、ちょっと気になるブログエントリーを拝読したので簡単にメモしておこうと思う。
自分が紹介記事を書く際には、基本的に「誰の目にも触れる」ということを想定していて、その上で読者に何らかの「気づき」を得てもらうことを期待はするけれど、その作品が「なんか合わない」という人も当然いるだろうな、ということは常に念頭に置かざるをえない。特にLGBTを扱う作品に関しては、異性愛を扱う作品よりも一段注意の度合いを高めるようにしているのが現実だったりする。
さて。今回の「レズビアンの透明化」という話は、「セクシャルマイノリティのコモディティ化」とする方がより実態に近いのではないか、という感想を持っている。これは、2010年以降にネットで当事者が発信する機会が増えたし、それと共にセクシャルマイノリティを題材にする作品も飛躍的に多くなっている。当然、多様性も出てきて同じ嗜好でもスタンスが違う人が現れている。ただ、これは健全だし何ら否定されることではないだろう。
とはいえ、「自身のセクシャリティーを特別視しないでほしい」という傾向は高まっているように思える。自分は元参議院議員でゲイであることをカミングアウトした松浦大悟氏にインタビューをさせて頂いたのだけど、その際に感じたのは「セクシャルマイノリティの中でも世代による断絶がある」ということだった。
例えば、自分の世代なら尾崎南先生の『絶愛-1989-』は教養だと思うし、ヒラリー・スワンク主演の『ボーイズ・ドント・クライ』を観てトランスジェンダーの生きる厳しさを感じたりしている。そして、セクシャルマイノリティーであることをカミングアウトすることの「重さ」について、当事者でなくても多少は理解が及ぶ。が、そういった文脈が2020年に継承されているのかどうかと言えば、「?」がつく。
とりわけ「性自認」を明確にしたいという人が、その「明確にできる自由」を享受するまで、先人がどのように戦ってきたか、「知らない」とまで言わないけれど「敬意が足りないのでは」という疑問を覚えるケースが増えているようにも思える。ただ、これは批判的に捉えた見方であって、そういうことを意識せずに「性自認」をオープンにできる社会になりつつあるというのは喜ぶべき変化であるということも付け加えておきたい。
実際に、自分の知り合いにもゲイやレズの人はいるし、彼ら彼女らがそれで特別視されているようには感じられない。異性愛者と同性愛者、バイセクシャルが偏在して社会に存在しているということは、2020年の現在地だと思うし、それが多くの創作作品にも現れているようにも思える。
だからこそ、「性自認」を明確にするのか、それとも曖昧にするのかといった議論が巻き起こるわけで、これが15年ほど前ならば考えられないことだった。だから、議論が起こる「そのもの」が社会の進歩と捉えることができるだろう。議論している当事者の皆さんにとってはめっちゃカロリー高くて辛いとも思うけれどね!
願わくば、性嗜好の多様性を認めるのと同じように、個々のスタンスについて認め合えるような人が増えて欲しいと思うし、メディアとしても様々な作品や「考え方」を肯定も否定もせずにピックアップしていくことが求められている、というのが自分自身の考えでもある。そんなわけで、単純に「百合」の中のぶつかり合いと捉えるのでなく、個々人のスタンスの違いが顕在化したものと見る方が、より普遍的に整理できるのではないか、という感想を持った。
「できることを、ありったけ」な物語には、必ず人の気持ちを揺さぶる力があるという話
「いつもの君と同じで良いじゃない」
「いつもの俺」
「つまり、ありったけ、ってこと」
これは、『ゴブリンスレイヤー』第10巻の、牛飼娘とゴブスレさんとのやりとりの一節。女神官が巻き込まれたトラブルに、「手を貸してやりたいけれど手段がわからん」と悩むゴブスレさんに、何でもないことのように言って笑う牛飼娘に、この物語の本質が詰め込まれている。
『ゴブリンスレイヤー』の世界は、「名もなき者」で紡がれている。勇者や国王ですら名は出されない。つまり「役割」「ロール」に過ぎない。だからこそ、たとえ小さな冒険であっても、当人にとっては「できることを、ありったけ」で臨むことを求められ、「チート」と思われがちな勇者パーティーでも変わらない。そうでなければ「死んでしまう」からだ。この話がここまで支持されるのは、その「ありったけ」にあるのだというのが、私の考えだ。
同じことは、個人的にイチオシの『真の仲間じゃないと勇者のパーティーを追い出されたので、辺境でスローライフすることにしました』にも言える。
主人公のレッドは妹で「勇者」のルーティーの「導き手」という加護のため、コモンスキルを限界まで高めている。剣は達人級で博識、薬の調合を生業にしていて、料理だってできる。こう並べると「チート」っぽいが、本職には敵わない器用貧乏。それを自覚しつつそれでも努力に努力を重ねた結果「スローライフ」にたどり着いた。その丁寧なストーリー展開と描写も、ざっぽん氏の「ありったけ」が詰め込まれているように思える。
転生して無双するといった物語が大量に生まれて消費されていることについて、批判するつもりはまったくないのだけど、 どうもここ最近、静かに空気が変わっているように感じられる。言葉にするのは簡単ではないが、もっと「俺たち」に寄り添った話が求められているように感じられてならないのだ。
例えば、『ふらっとヒーローズ』で連載中で、8月12日に第一巻が刊行となる熊田龍泉先生の『それでもペンは止まらない』は、「これは未だ報われぬ者たちへの讃歌である」と謳われている。
主人公の美空輝子は、33歳の中堅漫画家。美人だけど男っ気はまったくなく、編集者やアシスタントたちに振り回されっぱなしでも、必死に仕事をこなしている。そして、輝子だけでなく、他の登場人物たちも彼女たちなりに精一杯の人生を戦っている。
他者から見れば皆が「人生の脇役」かもしれないけれど、当人たちにとっては真剣で切実な毎日だというのは、たしかに現代に生きる「私たち」に通じるところがあるし、その姿は「かっこいい」。そうすると「私たち」も誰かに「かっこいい」と思われるかもしれない可能性に気付かされる。
翻ると、2020年に生きる私たちには余裕がない。長らくデフレが続いて給料は上がらないし、少子高齢化で老後がどうなるのか誰もが不安を抱えているし、メディアもそれを煽っている。そこにやってきた新型コロナウイルス感染症で、明日への不透明さはさらに増した。世界はあまりに複雑すぎて、中には途方にくれる人もいるだろう。
そんな中でも、自分たちは「できることを、ありったけ」で行くしかないんだ、と思わされたのは、フルリモートで企画から公演まですべてこなす『劇団ノーミーツ』の第二回公演『むこうのくに』を見たからだ。
『むこうのくに』のストーリーについては、noteに自分も含めて様々な方々が感想を寄せているので、こちらをご覧頂ければと思うが、ざざっと説明すると仮想空間が発達した2025年を舞台に、自分が開発したAIの「友達」を探し求める青年を中心とした群像劇。近未来感がありつつも、現在の(特にネットの)社会問題にも通じる話でもあり、コミュニケーションの本質をテーマにしているとも言えるだろう。
個人的に驚かされるのは、『劇団ノーミーツ』のスピード感。4月に活動を開始してから、まずはTwitterなどに2分程度の作品を発表して、5月の旗揚げ公演『門外不出モラトリアム』では、フルリモートで2時間以上の演劇をZoomを用いてやり遂げてみせた。
そこからわずか2ヶ月後の『むこうのくに』では、単にZoomを使うのではなく、仮想空間『ヘルベチカ』の世界観を構築。観客も参加者であるようなアートワークを実現させた。
このように記すと、「さぞかし天才が集結したのだろう」と勘違いしがちだ。だが、出演者のひとりで演出助手・脚本助手を務めたオツハタさんが、このようにツイートしている。
やっぱり思ったことを言うよ、すごいチームだけど天才っていないよ。これまで、みんな努力したんだよ。その人たちが頭をひねって作ってる。だから簡単に「天才」とか「ずるい」とか言わないようにします。自戒ね。言われるように努力しよ。寝ちゃいけない時に寝て、寝なきゃいけない時に寝れない男より
— オツハタ🌕劇団ノーミーツ (@otsuhatact) July 25, 2020
「人間、誰しもが有能なところも無能なところもある」というのは佐藤大輔御大の作品に通底するものだが、『むこうのくに』でも、ひきこもりニートっぽいマナブが超絶なハッキング技能を持っていたりするし、理念の実現に燃える政治家秘書が「間違える」こともある。そういった演者の「リアル」を引き出したのは、間違いなく関わったすべてのスタッフの方々が「できることを、ありったけ」やったからだ。
確かに彼らは「凄い」けれど、その「凄さ」は到達不可能なものじゃない。実際に活用されている技術は既にあるもので、その組み合わせ、つまり知恵によって作り上げたものだ。『ゴブリンスレイヤー』的にいえば、「手はある。常に、皆がいれば」といったところだろうか。
「できることを、ありったけ」が伝わる作品には、人を魅了する力が宿るし、それは現実でも一緒だ。誰もが余裕のない今を必死に生きている。それを信じること。そして自分も限られたリソースで「ありったけ」をぶつけること。そういった「物語」こそが支持されるし、後世にも残るのではないかと、楽観的かもしれないけれど思いたいし、そうあるべきなのだと信じている。
二階堂幸先生の短編集『ありがとうって言って』の独特の空気感に魅せられて
二階堂幸さんのことは、Twitterで公開されていた『雨と君と』ではじめて認識した。スケッチブックを手にしたタヌキが女性に拾われる話なのだけど、彼女たちが「芸達者なワンちゃん」として扱っていて、いろいろおかしいのだけど、空気感が独特で惹き込まれた。
雨と君と pic.twitter.com/jmjEhv1UEQ
— 二階堂幸@短編集発売中 (@nikaidooooooooo) May 10, 2020
その時に7月に短編集が刊行されると知って、絶対に読もうと思っていたので、ここではその『ありがとうって言って』の読後感について、簡単に紹介したい。
本作では、7つの短編が収録されている。『あなたの隣にも』2作のように、人間と鬼/アンドロイドとの関係を描いたSF風の世界もあれば、『先生が好き』『翡翠色の瞳』のような片想い話、そして、『雨と君と』のようにタヌキが主人公の『よっつのドーナッツ』、ドイツに旅行したカップルの心象を瑞々しく描いた『恋のスイングバイ』と、さまざまなカラーの作品が揃っているけれど、なんというか、どれも空気が穏やかで澄んでいて、ちょっと独特なのだ。
とりわけ印象的だったのが『Run!』。好きな人と神社で待ち合わせして走って向かう女の子の話なのだけど、これには一切セリフがない。ないのに、どんな言葉が発せられているのか、どんなことを考えているのか、聞こえてくるようなのだ。途中で出会うイベントの度に足を止めるのだけど、それがまた感情豊かで、しなやかで、「あ~世界には物語で満ちているんだなぁ」という気分にさせられる。特に、階段を登りきってポニーテールにしていた髪をほどくカットが、この話の躍動感を際立たせているように感じた。
もうひとつ。『あなたの隣にも』は、鬼あるいはアンドロイドがいる世界で、それなりに人間と隔意がありつつも付き合っている人も中にはいるという社会が描かれている。そこでの台詞で、ハッとさせられたのは次の2つだ。
「私たちはそれぞれに違っていてあたりまえなんだって、みんなの違いが見えればいいのに。ねえ、そんな世界ならさ、自分は人と同じだって、勘違いせずにすむのにね。そしてらみんなもっと、仲よくなれると思わない?」
「気にしてないよ。あのひとはそういう思考回路(プログラム)なんでしょ」
今の時代では、多様性があることによって逆に没個性になって、集団に埋もれることもしばしばだし、それでいてちょっとした違いによってぶつかり合ったりする。その本質を何気なく、何でもないように「言わせる」ことができるあたりに、ネームの力を感じさせる。しかも、前述したようにまったくネームに頼らないストーリーも紡いでも見せている。
そして何より、登場人物のコーディネートがシンプルながらおしゃれだ。何かにつまづくことはあるかもしれないけれど、自分の中の芯がある人の着こなし、と言えばいいだろうか。「自分もこんなふうに服を着てみたい」という気にさせられるし、作者自身もキャラクターのコーデを楽しく着せ替えしているように感じた。
思えば、よしながふみ先生も西炯子先生も短編の名手だった。彼女たちとは違った穏やかなカラーだけど、その中でピリッとした味付けをほどこすこともできるだけの力量を本作で存分に示しているし、いずれ長編作品も読んでみたい俊英だと思わされた。
『真の仲間じゃないと勇者のパーティーを追い出されたので、辺境でスローライフすることにしました』がいよいよ核心をチラ見せしてきた件について語りたい
ざっぽん先生の『真の仲間じゃないと勇者のパーティーを追い出されたので、辺境でスローライフすることにしました』(以下『真の仲間』)について、以前に単なる「追放系」に留まらない正統派ファンタジーだと強調したことがあったのだけど、最新巻の7巻で、いよいよこの世界のキーとなる「デミス神」に絡めて新たな展開が予告されていたので、簡単に触れておきたい。
7巻は、前巻と引き続き海賊王ゲイゼリクのヴェロニア王国のお家騒動にゾルタンが巻き込まれるというストーリー。「なろう」版とはキミランエルフのヤランドララが既にレッドたちと一緒にゾルタンに滞在している点と、前市長ミストーム師=ミスフィアの妹でヴェロニアの実質的な権力を掌握しているレオノールが騎士時代のレッド=ギデオンと出会っているという違いがあるが、基本的な物語の流れは一緒になっている。
『真の仲間』では、デミス神に与えられる「加護」によって人生が左右されてしまう中で、登場人物たちがどう向き合っていくか、というところ最大の読みどころだ。レッドの妹のルーティは、4巻で「シン」という名の「もうひとつの加護」を得ることによって、「勇者」の衝動から開放されて、自分の意思や感覚を取り戻した。ところが、本作の悪役として登場したレオノールは、「闘士」というありふれた「加護」で、なおかつレベルが「1」。「この世界は戦いに満ちている」という中で、ただの一度も自身の手で殺したことがない。
「神はそうあれとおっしゃったのでしょうね。でも私の主は私なのです。私が頼るのは私であって神などではない……。私の人生に加護など必要ありません」
「加護」の存在を全否定する彼女に、レッドやルーティは畏怖を覚える。「勇者」にさんざん振り回された兄妹だけに、自分の意思を最期まで貫いたレオノールの存在が与えたものは小さくない。ゾルタンの戦争は暴風のように過ぎ去り、いつもの平和でのほほんとした日常に戻ったが、レッドたちには容易には抜けない棘が残された。
そして、エピローグで語られる新たな「勇者」の存在だ。神の信徒が戦いを望むというのは、中世ヨーロッパから十字軍の歴史が証明しているが、この世界では「加護」の存在によって、「戦う」「殺す」大義名分が全ての生物に与えられている。そして、もうひとりの「勇者」ヴァンは、デミス神の狂信者として描かれている。物語はふたりの「勇者」が相見える不穏な未来を示して次巻へと託された。
もっとも、あとがきによると次巻は「森でのキャンプや田舎への旅行などスローライフを満喫します」とあるから、本巻では控えめだったレッドとリットのイチャイチャ成分(その分、リットがかっこよかった!)が堪能できそうだし、ギデオンとルーティのパーティ序盤を描くスピンオフ小説の刊行も決まっているとのことなので、肩に力を入れて読む必要は全くといってなさそう。しかし、デミス神と「加護」の依らないアスラデーモン、そして戦いを求めるもう一人の「勇者」と、王道ファンタジーの種が撒かれている。お約束的な展開を踏まえつつ、その円環を広げようとする『真の仲間』の紡ぎ方に、これからも期待したい。
『ショートショートショートさん』にはマンガならではの面白さと、ちょっとした事を「面白がれる」大切さが込められていた
表紙がオシャレで気になっていたタカノンノさんの『ショートショートショートさん』。2巻が刊行されたこともあって一気に読んだ。
一読して思ったのは、「これはマンガの面白さ」だということ。例えば1巻の最初のコマが、目を両手を使って広げてコンタクトを入れるシーン。「ダリの『アンダルシアの犬』かよ!」というホラー的な描写。洗面台→メガネの視線が移るのは映画的なのだが、その後に鏡を見て「へへ……」と笑う樹さんのキュートさのギャップ。この振り幅の激しいタッチは、マンガでないと表現するのは難しいと思う。
「ショートさん」こと五十嵐樹さんは、事務員(?)をしつつ、小説を書き、映画を観て、SNSに一喜一憂しているという、リアルな「おひとりさま女子」が描かれている。時折挟まる漫☆画太郎先生的なオーバーなタッチで、その心境の変化がビビットに捉えられているのだけど、次の日にケロッと忘れていることが多い……ような気がする。この「引きづらない」ところが、リアルで今っぽくもある。
脇を固めるキャラも「こじらせている」のだけれど「こじらせすぎて」いない。彼氏が絶えない黒田花ちゃんが「誰か私のことを必要としてくれ、可及的速やかに」と自撮りをツイートして「違う」となるあたりの回のオチとか可笑しいし、ショートさんの同期で教師をやっている五十嵐さんが完全にオタク沼にハマっていて、生徒にスマホの使い方について会議をした後に「私には何も言う資格がないんですよ」と落ち込むあたりも微笑を誘う。この「笑い」が決して「嘲笑」ではなく、「そういうことあるよね」と共感できるような、でも面白いといった人間観察的な惹き付け方が上手い。
唯一、棘のような読後感を抱いたのは、ショートさんの弟の渉くんに大人のアレコレを教えた師匠が、ショートさんのことを「あんまり面白そうな人じゃない」と評するところ。ここで「面白くない」と言われた経験が走馬灯のように駆け巡り、ショートさんが自分のことが「面白い」アピールをするシーン。
なんだかんだで世間は「面白い」が溢れているし、求めている。一方で、ほとんどの人は不特定多数にとっては「何者でもない」存在であるというのが、このエピソードには詰め込まれている。その次の回でちゃんと「誰か」にとっては「何者でもなくない」話を持ってくるあたりに救われた……と思いきや、生々しくオトされるあたり、「普通」というのも「面白く」描こうと思えば描けるし、「面白がる」ことはどんな些細な事でも出来るというのが、本作の魅力と言えるだろう。
誰にでも、ファッション誌のカットのような「一瞬」があるし、誰にも分からないちょっとしたことでどんよりとした気分になる。そのどちらを感じ取るかは読者に委ねられている。やろうと思えばどちらにも振ることができるのに、振り幅で勝負しようとした作者の気概も感じられる。繰り返しになるけれど、マンガならではの面白さを追求している姿勢をこれからも応援したい気持ちにさせられた。
マンガ『声がだせない少女は「彼女が優しすぎる」と思っている』の世界は泣きたくなるほど優しすぎる
去年の今ぐらいの時期に、ストレスで心身のバランスを崩して失声症になった。喉元にまで言葉が出かかって、そこから息が詰まるような感覚になって、言葉が出てこない。とても慌てたし、「もう声が出ないのかもしれない」と脳裏をよぎりもした。今から思うと、ネガティブなことばかり考えていた。
矢沢いちさんの『声がだせない少女は「彼女が優しすぎる」と思っている』は、失声症の真白音が転校して、ぶっきらぼうな同級生の心崎菊乃に出会う物語。真白さんは筆談のためにスケッブックでコミュニケーションを取っている。転校したばかりの頃はクラスメートに囲まれていたのだけど、「話せない」ということでだんだん距離を取り始めていることを感じ取って、真白さんは自分のせいだと責めていた時、心崎さんが一緒にお昼を食べる。
「まるで心が読めるみたい」と真白さんが思っている心崎さんだが、実は本当に心の声が聞こえる。そのせいで人となるべく関わらないようになっていたが、真白さんのネガティブな「声」を見かねて一緒にいるようになる。そこで、真白さんが素直でまっすぐな心根の持ち主だとわかり、「調子が狂う」と思いつつも居心地の良さを感じだす。
真白さんは、声が出ないのに表情豊かで、他人の感情に敏感で、ちょっと抜けたところがあって、なんだかほっとけない女の子。一方で「心が読める」せいで斜に構えているように見える心崎さんも、真白さんがいうように「優しすぎる」から他人の感情に振り回されてしまうということがわかる。
人の感情はぐちゃぐちゃで、ドロドロしていて、時として気持ちが悪く感じることも多い。それが「読めて」しまうというのは、考え方によっては地獄に近い。そんな中で生きてきた心崎さんにとって、まっすぐすぎるほどにまっすぐな真白さんの心は、ゆっくりと、角を取っていくように、景色を変えてくれる存在なのだろう。この作品を「尊い」と表現するならば、ふたりがそれぞれの胸に寄り添うように接しているのを描いているからだろう。
ほかにも、ふたりの関係を羨ましく思っている中村さんや、コンビニバイトの習志野さん、担任の真田先生のエピソードも微笑ましくて、心がじんわりと温まる。自分にとって、この作品の世界は優しすぎて、ちょっと泣きそうになってしまう。そして、その「優しさ」こそ、多くの人が求めてやまないものの正体なのではないかとも思うのだ。
長編アニメ『泣きたい私は猫をかぶる』は2020年に生きる人への大事なヒントがたくさんあった
Netflixで配信されている長編アニメ『泣きたい私は猫をかぶる』は、もともと2020年6月に劇場公開される予定だったものが、新型コロナウイルスの自粛を受けて配信という選択になった。このことについては既にビジネス側からのアプローチについて各メディアが出しているが、Twitterで小出しに監督・キャストコメントを出すなどといった活用が上手く、本来ならば劇場パンフレットで網羅されていたであろう情報が得られるようになっている。
『泣き猫』について、私は既に『ガジェット通信』でレビュー記事を出しているのだけど、あえて1995年にスタジオジブリが出した『耳をすませば』を引き合いに出した。
これについては賛否があるのは分かっていたし、我ながら強引だなと感じる部分でもあったのだけど、「家族」というものについて、この2作品を比較して観るというのは「批評」をする上で必要なのではないか、と思ったのもまた事実だ。どっちも「猫」がキーになっているしね。
『耳をすませば』の雫は、図書館司書の父親と大学院に通う母親、姉という家庭環境。雫が聖司の影響を受けて作家になりたいと言い出して母や姉と衝突するが、基本的には昭和的なよき核家族が描かれていると言っていいだろう。聖司にしても、将来はヴァイオリン職人になりたいという明確なビジョンがあり、中学卒業後にいきなりイタリアに修行に行くという夢を持っている。このあたり1990年代の、今から振り返ると牧歌的に感じられるほどに眩しい未来を感じさせてくれる。
対して『泣き猫』のムゲは、父親と母親が離婚して、父の新たな婚約者と同居している。「この家はあなたたちのものであって自分のものではない」といった発言や、母親と婚約者との軋轢を感じて「この世界が嫌い」という心理、そして「無限大謎人間」と周囲から揶揄される言動や日ノ出賢人への執着は、一見するとアスペルガー症候群のようにも見える。ただ、「他人への情緒への欠落」という描写はムゲには感じられない。つまり、「アスペ」ぽく振る舞うことで、周囲との距離を取って自分を守ろうとしているのが、極めて2020年ぽいキャラクターだと言えるのではないだろうか。
日ノ出もムゲと同様に難しい家庭だ。父親は既に亡くしていて、母親からは成績優秀なために期待をかけられている。一方で、陶芸家の祖父を尊敬しており、工房で自ら焼き物を作ることへの関心を捨てられない。そんな中、工房を閉めることになり、ままらなない世の中と自分への悩みを抱えている。『耳をすませば』の聖司とは対照的なほどリアルだ。
そんな日ノ出のことを、一番近くで寄り添って見ていたのが、猫の太郎になったムゲで、だからこそ彼のことを「ムゲでも太郎でも力になれない。最低」と感じて、暴走するのだけれど、それは実際に視聴して頂きたい。
もうひとつ、この話のテーマとして「言葉」がある。ムゲはムゲで、父親や母親、婚約者の薫に言いたいことを我慢しているし、日ノ出は工房を継ぐと「言えなかった」と太郎に話すシーンがある。本当に言いたいことが人間関係を壊すことが怖くて言えない、というのは現代に生きる者の共通した悩みだと言ってもいいだろう。それは子どもでも例外でなく、家族との間の距離によって飲み込んでしまうということを、『泣き猫』では実感をもって伝えている。
私もそうだったが、現代では何かを「嫌い」だというのは簡単だ。でも、何かを「好き」ということには逡巡してしまう。それをどうすれば伝えられるのか、どうすれば「嫌い」を「好き」にできるのか、といった大事なことを教えてくれる。
もちろん、猫のモーションの細やかさや、「猫島」の美術、愛知県常滑の道端のノスタルジックな描写なども見どころとして挙げられる。そういったすべての要素をひっくるめて、2020年の「今」を鋭く切り取った作品として、『泣き猫』のことを観てみると、また違った面が見えてくるはずだ。
ちなみに。個人的にはムゲの幼馴染の頼子が、彼女の突飛さに振り回されつつも付き合っている理由が描かれているシーンが胸に響いた。主張しすぎず、かといって我がないわけでもない寿美菜子さんの演技もハマっていたように思う。