長編アニメ『泣きたい私は猫をかぶる』は2020年に生きる人への大事なヒントがたくさんあった
Netflixで配信されている長編アニメ『泣きたい私は猫をかぶる』は、もともと2020年6月に劇場公開される予定だったものが、新型コロナウイルスの自粛を受けて配信という選択になった。このことについては既にビジネス側からのアプローチについて各メディアが出しているが、Twitterで小出しに監督・キャストコメントを出すなどといった活用が上手く、本来ならば劇場パンフレットで網羅されていたであろう情報が得られるようになっている。
『泣き猫』について、私は既に『ガジェット通信』でレビュー記事を出しているのだけど、あえて1995年にスタジオジブリが出した『耳をすませば』を引き合いに出した。
これについては賛否があるのは分かっていたし、我ながら強引だなと感じる部分でもあったのだけど、「家族」というものについて、この2作品を比較して観るというのは「批評」をする上で必要なのではないか、と思ったのもまた事実だ。どっちも「猫」がキーになっているしね。
『耳をすませば』の雫は、図書館司書の父親と大学院に通う母親、姉という家庭環境。雫が聖司の影響を受けて作家になりたいと言い出して母や姉と衝突するが、基本的には昭和的なよき核家族が描かれていると言っていいだろう。聖司にしても、将来はヴァイオリン職人になりたいという明確なビジョンがあり、中学卒業後にいきなりイタリアに修行に行くという夢を持っている。このあたり1990年代の、今から振り返ると牧歌的に感じられるほどに眩しい未来を感じさせてくれる。
対して『泣き猫』のムゲは、父親と母親が離婚して、父の新たな婚約者と同居している。「この家はあなたたちのものであって自分のものではない」といった発言や、母親と婚約者との軋轢を感じて「この世界が嫌い」という心理、そして「無限大謎人間」と周囲から揶揄される言動や日ノ出賢人への執着は、一見するとアスペルガー症候群のようにも見える。ただ、「他人への情緒への欠落」という描写はムゲには感じられない。つまり、「アスペ」ぽく振る舞うことで、周囲との距離を取って自分を守ろうとしているのが、極めて2020年ぽいキャラクターだと言えるのではないだろうか。
日ノ出もムゲと同様に難しい家庭だ。父親は既に亡くしていて、母親からは成績優秀なために期待をかけられている。一方で、陶芸家の祖父を尊敬しており、工房で自ら焼き物を作ることへの関心を捨てられない。そんな中、工房を閉めることになり、ままらなない世の中と自分への悩みを抱えている。『耳をすませば』の聖司とは対照的なほどリアルだ。
そんな日ノ出のことを、一番近くで寄り添って見ていたのが、猫の太郎になったムゲで、だからこそ彼のことを「ムゲでも太郎でも力になれない。最低」と感じて、暴走するのだけれど、それは実際に視聴して頂きたい。
もうひとつ、この話のテーマとして「言葉」がある。ムゲはムゲで、父親や母親、婚約者の薫に言いたいことを我慢しているし、日ノ出は工房を継ぐと「言えなかった」と太郎に話すシーンがある。本当に言いたいことが人間関係を壊すことが怖くて言えない、というのは現代に生きる者の共通した悩みだと言ってもいいだろう。それは子どもでも例外でなく、家族との間の距離によって飲み込んでしまうということを、『泣き猫』では実感をもって伝えている。
私もそうだったが、現代では何かを「嫌い」だというのは簡単だ。でも、何かを「好き」ということには逡巡してしまう。それをどうすれば伝えられるのか、どうすれば「嫌い」を「好き」にできるのか、といった大事なことを教えてくれる。
もちろん、猫のモーションの細やかさや、「猫島」の美術、愛知県常滑の道端のノスタルジックな描写なども見どころとして挙げられる。そういったすべての要素をひっくるめて、2020年の「今」を鋭く切り取った作品として、『泣き猫』のことを観てみると、また違った面が見えてくるはずだ。
ちなみに。個人的にはムゲの幼馴染の頼子が、彼女の突飛さに振り回されつつも付き合っている理由が描かれているシーンが胸に響いた。主張しすぎず、かといって我がないわけでもない寿美菜子さんの演技もハマっていたように思う。