Parsleyのリハビリ部屋

ちょっと人生に疲れたParsleyが、リハビリのつもりでつらつら言葉を重ねていくブログです。

濫用されがちな「かわいい」と、「kawaii」を表現するアーティストが示すもの

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撮影:GION

 ネットメディアでの売文業をしていると、「かわいい」という言葉をどうしても多用してしまいがちになる。特に、タイトルだと「○○可愛い」みたいな表現にバリエーションを加えることもできて、非常に便利でもある。実際に、SNSでは「かわいい」が溢れているし、その多くは無意識的に発せられたものだろう。そういう空気を自分が出すコンテンツが助長しているという自覚もある。

 とはいえ、この「かわいい」を使うことに若干の屈託があるのは、現在に至るまでの意味の変遷や、「カワイイ」の表現者たちが、どういった想いを込めて作品を世に送り出してきたのか、常に頭をよぎるからだ。

 

 『学研全訳古語辞典』によれば、「かはゆし」には、次のような意味があるとしている。

 

① 恥ずかしい。気まり悪い。
② 見るにしのびない。かわいそうで見ていられない。
③ かわいらしい。愛らしい。いとしい。
  ◆「かほ(顔)は(映)ゆし」の変化した語。

 

 ①に関しては平安期、②は鎌倉・南北朝時代の頃の表現で、現代にも通じる③は室町以降の言葉。とはいえ、室町期の「かはゆし」も「恥ずかし」といった意味を言外に込められており、ダブルミーニングとして使われていると捉えることが自然な場合がある。同様に、平安期の「愛しい」は「かなし」だったことも併せて考えると、「かわいさ」には「悲しさ」や「淋しさ」といったものと隣り合わせだったのだろうと思うし、そこに日本的「かわいい」の奥深さがある。

 

  英語における「cute」でもなく「lovely」でもなく、「kawaii」として戦った存在として、原宿のショップ『6%DOKIDOKI』創設者でアーティストの増田セバスチャンさんの軌跡は「かわいい」を考える上で外せない。

 カラフルで、ある意味において奇矯とも捉えられるアイテムを世界中から集めてまわり、原宿で流通させた増田さんは、『6%DOKIDOKI』に集まってきたお客のことを「ほかに居場所がない子がたくさん集まってきた」と表現したことがある。彼女/彼たちにとって、家や学校で抑圧された個性を発露させる場所としての「原宿」であり「kawaii」なのだというのが、増田さんの価値観であり、それを「individual」(個人的)なものだと表現している。そういった集合した意識たちに、増田さんがどう影響(侵食、と言い換えてもいいかもしれない)されて、自身の五感が変わっていったのか、ということを知る上で、「Colorful Rebellion」と題された作品群を見ることができる。

 彼が表現するものや、集めてきたもの、流通させたものは、確かに「かわいい」の一言で完結させることもできる。だが、それが「なぜかわいいのか」と突き詰めようとすると、途端にさまざまな人の声なき叫びが聞こえてくる。自分自身では思い通りにならないものや、他者との軋轢、自分自身の中に淀む嫌な感情……etc

 そういった「負」の意識が、表層の下で化学変化した結果、さまざまな色が一度に洪水のように噴出したもの。それはグロテスクでもあるかもしれないが、「カワイイ」ものでもあると再定義したことこそが、アーティスト増田セバスチャンの真髄だというのが、私自身の理解だ。彼の表現に心揺さぶられるのは、多くの人の感性を受け止めて、苦しみながら花を開かせることができたプロセスも見せられているからだと思う。

 

 そういった意味では、前回のエントリーで触れた水彩画家のたまさんも、現代日本の少女たちのリアルな「カワイイ」とは何か、考えさせられる作品をずっと描き続けている存在だといえるだろう。

 

parsley-reha.hateblo.jp

 

 

 大きな目と綺麗な髪が印象的なたまさんの少女像だが、彼女たちは時に自身や周囲のモノを容赦なく切り刻む。自身の腕だったりはらわただったり、ぬいぐるみのクマだったり、ベッドだったりお菓子だったり。そして時には瓶の中に閉じ込められたり、何かに食べられてしまったりする。

 描かれているモチーフがエグいにもかかわらず、やはり最初に出てくる感想は「カワイイ」になるのは、それが描かれている少女自身の侵しがたい領域が表現されているからであり、たまさん自身の意識も彼女たちに寄り添っていて、時として投影もされているからだ。描かれた少女たちとニアイコールの感情を今でもたまさんが持ち合わせているということに、年齢や性別といったもので括ることができない唯一無二の「かわいさ」 が、彼女の作品を観ると出会うことができる。

 

 ここで気づいた方がいるかもしれないが、増田さんが手掛けた『6%DOKIDOKI』は雑誌『KERA』のストリートスナップではマストアイテムだったし、たまさんは同誌や姉妹誌『ゴシック&ロリータバイブル』でイラストが掲載されていた。19世紀ヨーロッパがモチーフの洋服や、カラフルなコーディネートを日本で「着る」という行為の、心の裏側を覗こうとしてみた時、「かなし」でもなく「かはゆい」でもない、「kawaii」に辿り着いた。このように捉えることもできるかもしれない。

 そういった意味では、増田さんもたまさんも、現代の日本の少女たちの心持ちの欠片を拾い続けた存在として、50年や100年後にレコメンドされることになるだろう、という確信が、私にはある。だからこそ、同時代に生きる者として、この二人に限らず「カワイイ」や「少女」を描く作家は、リアルタイムで追わなきゃいけない、と思っている。