Parsleyのリハビリ部屋

ちょっと人生に疲れたParsleyが、リハビリのつもりでつらつら言葉を重ねていくブログです。

『一瞬を生きる君を、僕は永遠に忘れない。』を読んで考えた、写真を「撮り切る」という事と、記憶が記録を凌駕するという事

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 10代の頃に、カメラが趣味の一つだった自分にとって、「撮影する」という行為は「作品」を生み出すことだった。さまざまな理由(主に金銭面)でそれをお仕事にする道は捨てたのだけど、廻り廻って今Webメディアでライターをしている私は、時として写真を撮ることもある。だけど、それは「作品」ではなく「情報」としてのものだ。巧拙ということでなく、「何が写っているのか」ということが問われる撮影は、時代が過ぎて「記録」になるかもしれないけれど、あくまで道具としてカメラを使って情報としての「画像」を残しているという行為だ。10代の自分が捨てたカメラは、おそらくずっと私の手元には戻ってこない。

 

 こんなことを考えたのは、冬野夜空さんの『一瞬を生きる君を、僕は永遠に忘れない。』を読んだからだ。

 主人公の高校生、天野輝彦はひょんなことから織部香織をモデルに写真を撮ることになり、二ヶ月の間濃密な時間を共にすることになる。彼は亡くなった父が写真が好きだったことでカメラを手にすることになるのだが、プロローグで「僕はもう、カメラを手にすることはありません」と言い切っている。この段階で、私はこの物語にどうしようもなく惹き込まれた。10代の私は写真を「諦めた」のだけど、彼は写真を「撮りきった」ということが、いやおうにも理解できたからだ。

 

 香織は自身の誕生星であるベガの星言葉「心が穏やかな楽天家」で、自身が織姫だと言ってはばからないような強引な女の子でありつつ、自身を蝕む病もあり、間近に迫る「死」について冷静に認識しているように、当初は見える。その姿を輝彦はフィンダーを構えて、流れる時間から切り取っていく。

 その間に、カメラマンとモデルという関係を輝彦は必死に守ろうとする。香織の「死」への受容が揺らいで、「ふつうの10代の女の子」として恋がしたい、生きたいとなるあたりの描写は非常にリアルかつ丁寧で、読者は否応にも胸が締め付けられるだろう。そして、最後の撮影でおそらく、読者には「-----」として伝えられなかった言葉で、輝彦はカメラマンという一線を超えた言葉を香織に投げかけ、彼女を落涙して笑顔になり、それが彼と彼女にとっての到達点となったのだろう。

 

 ところで、この作品のカバーイラストは2020年6月にNetflixで配信される『泣きたい私は猫をかぶる』で作画監督を務めているへちまさんが描いていて、透明感のある香織の姿が儚くも美しくて、とても印象的なのだけど、物語を読むと謎が残る。

 輝彦がフォトコンテストに出した「ベガ」は、香織の最期の姿を写した一枚のはずだ。それは病室で撮ったものだった。一方で、輝彦が香織から撮影を依頼される学校の屋上も、彼らにとっては思い出に残るスポットだ。そこで涙を流して笑顔を見せる香織の描写は作中にはない。

 だから、このシーンは輝彦にとっての「一瞬」が幾重にも積み上がって生まれた、彼の脳裏にだけある、我々読者にとっては「架空の一枚」ということになる。本当なら存在しない一枚を、彼が「永遠」と捉えているのだとしたなら、とても切なくて、とても美しく、「忘れて」とお願いされても忘れることなどできないシーンとして、私たちにも共有される。もしかしてフィンダー越しに彼が見た香織の姿が、このカバーだったのかもしれない。そうだとするならば、輝彦が積み重ねた「記録」が作った「記憶」として、この物語を彩っているということになる。

 この小説のカバーとして、この一枚絵は単純に惹かれるし、読了した後だと別の見方が出来て、やはり素敵だ。自分がこの作品を思い出す時には、必ず夕日をバッグに涙笑いを見せる香織になるだろう。