Parsleyのリハビリ部屋

ちょっと人生に疲れたParsleyが、リハビリのつもりでつらつら言葉を重ねていくブログです。

マンガ『ギャルとぼっち』のひなちゃんの芯の強さと林原ちゃんの優しさが沁みたという話

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 ネットメディアでお仕事をしている関係で、さまざまな漫画家さんがTwitterなどにアップされている作品を紹介させて頂いている。その度にユーザーの琴線に触れるような話を描くことができていて、みなさんの事を「すごいなぁ」と思うわけなのだけど、その中でも「これは」と感じるものにはどうしても肩入れしたくなってしまう。

 

 6月22日に第一巻が刊行された朝日夜さんの『ギャルとぼっち』は、まだ体調がよくなくて、世界中が敵のように思える時があった頃に「謝らなくても、いいんだよ」という投稿を目にしたのが最初だった。

 

 

 

  自分は「断る」のが苦手な人間だ。心身を崩したのはそれが理由のうちの一つだった。そんな中、ちゃんと自分の意思を伝えたひなちゃんが眩しく映ったし、それを受け入れて「謝らないでいい」という林原ちゃんの優しさが沁みた。

 朝日さんは、ギャルについて「自分と他人の境界をしっかりもっている子が多い」と話しているが、林原ちゃんは自分の好きなことは人の目も関係なくルーズソックスを履くし、香水をつけて、つけまつげをつける。それでいて、他人のことを尊重するだけでなく気遣いもできるし、人の話をちゃんと聞く素直な子。だからひなちゃんも「苦手」といいつつも一緒にいるのだということが、しっかりと描かれているように思う。

 

 単行本では、林原ちゃんがひなちゃんと友達になりたいと思ったきっかけや、ひなちゃんが「友達はいらない」と思うようになった理由が描かれている。ひなちゃんはひなちゃんで芯の強い子だけど、ずっと何かを「我慢」をしてきたのだろう。林原ちゃんの前で見せる表情のひとつひとつが、ゆっくりと氷が溶けていくような、隙間をついて吹き抜けるあたたかい風のような、「心が開く」というのとはまた違った、ふいを突かれてつい出てしまう素の顔が見えるようで、読んでいるこちらまで優しくなれる。

 

 早くも第二巻の刊行も確約されたというが、まだ収録されていない校則に寛容な年配の女性教師の話や、摂食障害の子が出てくる話は、「学校」という社会を切り取る大事な回だと思うので、より多くの人の目に触れる機会が増えてもらいたいし、個人的にはいつも明るい林原ちゃんが悩む話も見てみたい。いずれにしても、今後が楽しみなマンガであることは間違いないだろう。

 

otajo.jp

 

 

 

 

 

 

『一瞬を生きる君を、僕は永遠に忘れない。』を読んで考えた、写真を「撮り切る」という事と、記憶が記録を凌駕するという事

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 10代の頃に、カメラが趣味の一つだった自分にとって、「撮影する」という行為は「作品」を生み出すことだった。さまざまな理由(主に金銭面)でそれをお仕事にする道は捨てたのだけど、廻り廻って今Webメディアでライターをしている私は、時として写真を撮ることもある。だけど、それは「作品」ではなく「情報」としてのものだ。巧拙ということでなく、「何が写っているのか」ということが問われる撮影は、時代が過ぎて「記録」になるかもしれないけれど、あくまで道具としてカメラを使って情報としての「画像」を残しているという行為だ。10代の自分が捨てたカメラは、おそらくずっと私の手元には戻ってこない。

 

 こんなことを考えたのは、冬野夜空さんの『一瞬を生きる君を、僕は永遠に忘れない。』を読んだからだ。

 主人公の高校生、天野輝彦はひょんなことから織部香織をモデルに写真を撮ることになり、二ヶ月の間濃密な時間を共にすることになる。彼は亡くなった父が写真が好きだったことでカメラを手にすることになるのだが、プロローグで「僕はもう、カメラを手にすることはありません」と言い切っている。この段階で、私はこの物語にどうしようもなく惹き込まれた。10代の私は写真を「諦めた」のだけど、彼は写真を「撮りきった」ということが、いやおうにも理解できたからだ。

 

 香織は自身の誕生星であるベガの星言葉「心が穏やかな楽天家」で、自身が織姫だと言ってはばからないような強引な女の子でありつつ、自身を蝕む病もあり、間近に迫る「死」について冷静に認識しているように、当初は見える。その姿を輝彦はフィンダーを構えて、流れる時間から切り取っていく。

 その間に、カメラマンとモデルという関係を輝彦は必死に守ろうとする。香織の「死」への受容が揺らいで、「ふつうの10代の女の子」として恋がしたい、生きたいとなるあたりの描写は非常にリアルかつ丁寧で、読者は否応にも胸が締め付けられるだろう。そして、最後の撮影でおそらく、読者には「-----」として伝えられなかった言葉で、輝彦はカメラマンという一線を超えた言葉を香織に投げかけ、彼女を落涙して笑顔になり、それが彼と彼女にとっての到達点となったのだろう。

 

 ところで、この作品のカバーイラストは2020年6月にNetflixで配信される『泣きたい私は猫をかぶる』で作画監督を務めているへちまさんが描いていて、透明感のある香織の姿が儚くも美しくて、とても印象的なのだけど、物語を読むと謎が残る。

 輝彦がフォトコンテストに出した「ベガ」は、香織の最期の姿を写した一枚のはずだ。それは病室で撮ったものだった。一方で、輝彦が香織から撮影を依頼される学校の屋上も、彼らにとっては思い出に残るスポットだ。そこで涙を流して笑顔を見せる香織の描写は作中にはない。

 だから、このシーンは輝彦にとっての「一瞬」が幾重にも積み上がって生まれた、彼の脳裏にだけある、我々読者にとっては「架空の一枚」ということになる。本当なら存在しない一枚を、彼が「永遠」と捉えているのだとしたなら、とても切なくて、とても美しく、「忘れて」とお願いされても忘れることなどできないシーンとして、私たちにも共有される。もしかしてフィンダー越しに彼が見た香織の姿が、このカバーだったのかもしれない。そうだとするならば、輝彦が積み重ねた「記録」が作った「記憶」として、この物語を彩っているということになる。

 この小説のカバーとして、この一枚絵は単純に惹かれるし、読了した後だと別の見方が出来て、やはり素敵だ。自分がこの作品を思い出す時には、必ず夕日をバッグに涙笑いを見せる香織になるだろう。

 

 

 

 

濫用されがちな「かわいい」と、「kawaii」を表現するアーティストが示すもの

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撮影:GION

 ネットメディアでの売文業をしていると、「かわいい」という言葉をどうしても多用してしまいがちになる。特に、タイトルだと「○○可愛い」みたいな表現にバリエーションを加えることもできて、非常に便利でもある。実際に、SNSでは「かわいい」が溢れているし、その多くは無意識的に発せられたものだろう。そういう空気を自分が出すコンテンツが助長しているという自覚もある。

 とはいえ、この「かわいい」を使うことに若干の屈託があるのは、現在に至るまでの意味の変遷や、「カワイイ」の表現者たちが、どういった想いを込めて作品を世に送り出してきたのか、常に頭をよぎるからだ。

 

 『学研全訳古語辞典』によれば、「かはゆし」には、次のような意味があるとしている。

 

① 恥ずかしい。気まり悪い。
② 見るにしのびない。かわいそうで見ていられない。
③ かわいらしい。愛らしい。いとしい。
  ◆「かほ(顔)は(映)ゆし」の変化した語。

 

 ①に関しては平安期、②は鎌倉・南北朝時代の頃の表現で、現代にも通じる③は室町以降の言葉。とはいえ、室町期の「かはゆし」も「恥ずかし」といった意味を言外に込められており、ダブルミーニングとして使われていると捉えることが自然な場合がある。同様に、平安期の「愛しい」は「かなし」だったことも併せて考えると、「かわいさ」には「悲しさ」や「淋しさ」といったものと隣り合わせだったのだろうと思うし、そこに日本的「かわいい」の奥深さがある。

 

  英語における「cute」でもなく「lovely」でもなく、「kawaii」として戦った存在として、原宿のショップ『6%DOKIDOKI』創設者でアーティストの増田セバスチャンさんの軌跡は「かわいい」を考える上で外せない。

 カラフルで、ある意味において奇矯とも捉えられるアイテムを世界中から集めてまわり、原宿で流通させた増田さんは、『6%DOKIDOKI』に集まってきたお客のことを「ほかに居場所がない子がたくさん集まってきた」と表現したことがある。彼女/彼たちにとって、家や学校で抑圧された個性を発露させる場所としての「原宿」であり「kawaii」なのだというのが、増田さんの価値観であり、それを「individual」(個人的)なものだと表現している。そういった集合した意識たちに、増田さんがどう影響(侵食、と言い換えてもいいかもしれない)されて、自身の五感が変わっていったのか、ということを知る上で、「Colorful Rebellion」と題された作品群を見ることができる。

 彼が表現するものや、集めてきたもの、流通させたものは、確かに「かわいい」の一言で完結させることもできる。だが、それが「なぜかわいいのか」と突き詰めようとすると、途端にさまざまな人の声なき叫びが聞こえてくる。自分自身では思い通りにならないものや、他者との軋轢、自分自身の中に淀む嫌な感情……etc

 そういった「負」の意識が、表層の下で化学変化した結果、さまざまな色が一度に洪水のように噴出したもの。それはグロテスクでもあるかもしれないが、「カワイイ」ものでもあると再定義したことこそが、アーティスト増田セバスチャンの真髄だというのが、私自身の理解だ。彼の表現に心揺さぶられるのは、多くの人の感性を受け止めて、苦しみながら花を開かせることができたプロセスも見せられているからだと思う。

 

 そういった意味では、前回のエントリーで触れた水彩画家のたまさんも、現代日本の少女たちのリアルな「カワイイ」とは何か、考えさせられる作品をずっと描き続けている存在だといえるだろう。

 

parsley-reha.hateblo.jp

 

 

 大きな目と綺麗な髪が印象的なたまさんの少女像だが、彼女たちは時に自身や周囲のモノを容赦なく切り刻む。自身の腕だったりはらわただったり、ぬいぐるみのクマだったり、ベッドだったりお菓子だったり。そして時には瓶の中に閉じ込められたり、何かに食べられてしまったりする。

 描かれているモチーフがエグいにもかかわらず、やはり最初に出てくる感想は「カワイイ」になるのは、それが描かれている少女自身の侵しがたい領域が表現されているからであり、たまさん自身の意識も彼女たちに寄り添っていて、時として投影もされているからだ。描かれた少女たちとニアイコールの感情を今でもたまさんが持ち合わせているということに、年齢や性別といったもので括ることができない唯一無二の「かわいさ」 が、彼女の作品を観ると出会うことができる。

 

 ここで気づいた方がいるかもしれないが、増田さんが手掛けた『6%DOKIDOKI』は雑誌『KERA』のストリートスナップではマストアイテムだったし、たまさんは同誌や姉妹誌『ゴシック&ロリータバイブル』でイラストが掲載されていた。19世紀ヨーロッパがモチーフの洋服や、カラフルなコーディネートを日本で「着る」という行為の、心の裏側を覗こうとしてみた時、「かなし」でもなく「かはゆい」でもない、「kawaii」に辿り着いた。このように捉えることもできるかもしれない。

 そういった意味では、増田さんもたまさんも、現代の日本の少女たちの心持ちの欠片を拾い続けた存在として、50年や100年後にレコメンドされることになるだろう、という確信が、私にはある。だからこそ、同時代に生きる者として、この二人に限らず「カワイイ」や「少女」を描く作家は、リアルタイムで追わなきゃいけない、と思っている。

 

 

 

もっとカジュアルにアート作品を買おうというお話

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 あまりこれまでは明言したことはなかったもしれないが、ギャラリーを開くのが自分の夢。できれば10年以内にパセリビルを建てることができるのがベストなのだけれど、そこまで行けるかどうかは、社会情勢にも左右されるので、コツコツとやっていこうと思っている。

 そのコツコツの一環でもあるのだけど、好きな画家さんやアーティストさんの作品の収集を少しずつはじめている。最近では、『暗黒メルヘンシリーズ2 夜間夢飛行』を上梓された最合のぼる先生とたまさんがコラボしたコラージュ「夜の彼方へ」を手元に迎え入れた。

 この「夜の彼方へ」は、『灰かぶり姫』をモチーフに想像の翼を闇へと広げた『夜間夢飛行』で、極めて重要なページを彩っている。何度読み返してみても、このシーンでページをめくる手が止まるということだけに、銀座のヴァニラ画廊の刊行記念展で実際にコラージュを目にして、額縁からキラキラと零れ落ちるようなラメの箔が施されているところに、惹かれた。最合先生によれば、それは「少女の泪」ということらしい。とても素敵だな、と思った。

 

 自分自身、振り返れば祖母が絵を描く人で、家には西洋絵画の図録がたくさんあったし、澁澤龍彦の著作によって「見方」を学んだ。20歳前後の頃にはデパートの美術展に通いまくった。だから、コレクターという存在はひどく遠いものに感じていた。

 とはいえ、2007年頃より小さな画廊にも足を運ぶようになって、自分の琴線に触れるアーティストが見つかるようになった時に、「思ったほど高くないんだな」と気づいた。これなら、自分にも「収集」ということができるかもしれない、と。

 

 もうひとつ。2000年代後半から現在に至るまでの「少女画」の系譜は、「カワイイ文化」と一緒くたに捉えてしまうのは簡単だが、実態はどろどろした、割り切れない、呪いのような、黒ずんだ想いが、我慢しきれずに表出してしまったという作品が多数生まれている。それを多数の画家が競うように描いていて、さらに一部に熱狂的な支持者がいるということに意味がある。端的に言って、時代を切り取る作品には力がある。そのイマジネーションは、集める価値がある。

 

 前述したように、オークションで目が飛び出るような価格で取引きされるような作品を「アート」とイメージしがちだが、実際に画廊に足を運べば、「ちょっと背伸びすれば買えるな」という作品は数多ある。自分のその価値がある、と感じた作品は手にする。そういった文化がもっと広がればいいし、自分もちょっと財布の紐を緩めてもいいくらいの心づもりでいようと、今は考えている。

 

 

夜間夢飛行〜暗黒メルヘン絵本シリーズ2 (TH ART SERIES)

夜間夢飛行〜暗黒メルヘン絵本シリーズ2 (TH ART SERIES)

  • 作者:最合 のぼる
  • 発売日: 2020/03/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

 

 

小説版とアニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を繋げるもの

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(C)暁佳奈/京都アニメーション

 

 本来ならば、4月24日に『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』が公開されているはずだったが、新型コロナの緊急事態宣言下で延期になってしまった。が、少なくとも私にとっての「愛」とは「いつまでも待てる」もののことだ。たとえ、その期間が「永遠」だったとしても。

 そんなわけで、3月に刊行された原作者・暁佳奈先生の『ヴァイオレット・エヴァーガーデン エバー・アフター』を読んで、思ったことをつらつらとメモしておきたい。

 

 小説『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』と、アニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は、どちらも「あり得るべくした物語」であって、「愛」のカタチは微妙に違い、それぞれが別のお話であると捉えるのが自然に思えるのだけれど、いくつか通底しているものがある。例えば、ヴァイオレットという元少女兵の自動手記人形を見つめる他の登場人物の「まなざし」であり、ヴァイオレットが「言葉」の「意味」を咀嚼していく姿勢だったり。そういったものが、ヴァイレットというキャラクターの小宇宙を形成していると言っていいだろう。

 小説の世界では、ヴァイオレットとギルベルト・ブーゲンベリアは既に恋仲だ。最終巻では、「愛」の意味を知った彼女が「恋」というあやふやな気持ちに振り回されている描写がいくつか見られ、ぎゅっと心を締め付けられるのだけど、特異なのは「愛」が先で「恋」が後だということだろう。彼女にとって、ギルベルトは従うべき上官であり、全幅の「信」を置いている「世界のすべて」だった。それが、生死不明で離されることになって、焦がれる気持ちを抱えて生きていた。その間に会う依頼主やクラウディア・ホッジンズの目から見たヴァイオレットという話に、我々読者は惹き込まれていった故に、ギルベルトの存在や選択をどう捉えるのか、ということが難題として突きつけられるし、アニメ劇場版で彼がどう描かれるのか、端的にドキドキしてしまう。

 

 だが。そんなことが一挙に吹き飛ぶほどのシーンが『エバー・アフター』にはあった。そこが描写されて、小説とアニメのヴァイオレットが、私の中では「繋がった」ように思えた。

 最終章『夢追い人と自動手記人形』で、ヴァイオレットは歌手を目指すレティシアアスターとしばらく軒を共にする。そこで、自身の「夢」をこのように語るのだ。

 

「………ロズウェルの紅葉は美しく、ドロッセルの町並みは花に溢れています」

「うん?」

「天文の都、ユースティティアの夜はまるで宝石を散りばめたような空で、ダーツ地方のジャガランダ河の自然の恵みは目を見張るものがあります」

「……う、うん?」

「私は、それを、私の好きな方にもいつかお見せしたい。きっと、あの方は、目を細めてご覧になると思うのです。休みの日は、馬に乗る方で、自然が好きなのです」

 嗚呼、とようやくそこでレティシアもヴァイオレットの発言を理解した。

「もし、夢を見ることが許されるならば、私はあの方に、私が見た美しい景色を、共有……したいのです」

(P317)

 

 以前、私は『ギルベルト少佐を「わたしの世界のすべて」と言うヴァイオレットだが、彼女自身はいつでも自然と共にある』と書いた。

 

parsley-reha.hateblo.jp

 

 アニメのヴァイオレットでは、ライデンの街を一望できる展望台に自動手記人形学校の同期生のルクリアに連れられて登る。そして、「いつかヴァイオレットにも、ライデンの美しい街並みを見せたい」というギルベルトの言葉を思い出す。

 嗚呼、やはり小説でもアニメでも、ヴァイオレットはヴァイオレットだ。

 そして、ヴァイオレットとギルベルトが肩を並べるのは、広い広い、水と草と土の香りがいっぱいの、あるいは海風が運ぶ潮の音が聴こえる中であってほしい。だから自然は、世界は、うつくしい。「ふたりを包み込んでいる」自然が綺麗だからこそ、「愛」が育まれていき、人生が続く。人と人の営みをつなぐのが太陽であり、月であり、海であり、山であり、川であり、森なのだ。

 このシーンが小説で明確にヴァイオレットの言葉として語られたことで、小説とアニメの距離は、少なくとも私の中では縮まったし、繋がった。それだけでも、私にとっては大切な、とても大切な一冊となった。想いとは、こうやって溢れていくのだという表現に関して、書き手としての暁先生はやはり非凡だと思わざるを得ないし、アニメ「だけ」では伝わらないヴァイオレットの世界というのが、ここにはあると断言できる。そういう意味でも、「別の物語」だけど、「繋がった世界」というニュアンスを、多くのファンに気づいてもらいたいな、と感じたのだった。

 

www.kyotoanimation.co.jp

 

violet-evergarden.jp

 

 

 

 

 

ちょっと海野つなみ先生の『回転銀河』の和倉ちゃんについて語らせてほしい

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 海野つなみ先生の作品は、大ヒット作となった『逃げるは恥だが役に立つ』はもちろん大好きだし、初期作の『デイジー・ラック』も思い出深いし、『小煌女』や『後宮』もいつ読んでもなんだか胸が一杯になるシーンがある。だが、一番を選ぶならばやはり『回転銀河』になってしまう。

 

 高校を舞台にした恋愛を連作形式で描いた『回転銀河』は、「めくるめく」という表現がぴったりくるような、揺れ動く想いがふっと地に足がつくような、各キャラクターのふわふわとした感情に言葉を探し続ける、そんな作品でどのキャラクターも魅力的なのだけど、個人的に「あ~好き」となるのは、やっぱり和倉千恵ちゃんだ。

 

 和倉ちゃんの事を語るならば、前段として天野兄弟に触れないといけない。優と賢は一卵性双生児で、容姿淡麗で頭脳明晰、学園の女子から「王子」として知られた存在だが、同時に氷のような冷酷さも併せ持ち、和倉ちゃんは「悪魔の双子」と呼んでいる。

 両親が海外で仕事しているということもあり、天野兄弟は二人だけの世界を作り上げてきた。恋愛はするけれど、それはどこまでも打算的であり、自身たちの審美眼を満足させるという独善的なものだった。

 それの「歯車」を崩すのが和倉ちゃん……ではないところが、海野先生の上手さであり、この作品に惹き込まれる理由でもある。まず、弟の賢が当時付き合っていた玲香の先輩であり、親が没落して中退した彬子と知り合い、彼女に惹かれて、おそらく生まれてはじめて恋に落ちるのだ。このエピソードも素敵なのでぜひご一読頂きたいのだけど、「二人でひとつ」だった天野兄弟の「世界」に綻びが生まれ、兄の優は孤独感を覚えるようになる。

 

 ここでようやく和倉ちゃんについて触れられる。最初、和倉ちゃんは天野兄弟に「目をつけられる」存在、かつ天野兄弟の華麗な立ちふるまいの傍観者として登場する。部員がたった3人しかいない手芸部に、「帽子を作りたいから」という理由で花形のサッカー部マネージャーから移籍して、その帽子が天野兄弟に気に入られるという流れなのだが、容姿も容貌も普通。成績も普通。賢いわく「ミス・ニュートラル」と呼ばれるのも納得なのだが、誰もが惹かれ恐れる天野兄弟にも普通に接することができるという、独特の立ち位置で物語を漂っていうあたりが、彼女が占めるとくべつな立ち位置なのだ。

 ストーリーが転回するにつれ、和倉ちゃんの視点から和倉ちゃんを見る視点へと変化するあたりもおもしろい。普通であるというとくべつな位置で、軌道をなぞる惑星から、恒星のような目映きを見せるようになっていく。そんな時に賢が彬子と恋人になり、優の微動だにしなかった世界が揺らいだ。そこにカチっとハマってしまったのが和倉ちゃんだったわけだが、前述のように美意識で付き合う相手にも鑑賞物のような扱いをする天野兄弟にとって「ふつう」すぎる和倉ちゃんは本来入り込む余地がないし、本人にもそういった意思はなかった。そこを出来心で「動かした」のが優であり、うんうん悶々しながらも、ある瞬間に「そっか」と納得して優を受け入れた和倉ちゃんの「理解」という「愛」は尊いと表現するしかないだろう。

 

 和倉ちゃんと天野優の「その後」について、ここでは語らない。しかし、賢が彼女を評した言葉は、いつ読んでも、ぬるめのお湯にゆっくりと沈んでいく砂糖のようなきらめきを放っている。

 

和倉は…

そうだなあ

いつも肩の力が抜けていて

片寄りのない目で広く 世界を見ようとしていて

その眼差しはとても優しい

 

 ああ、自分がもし女の子に生まれ変わることができるのならば、和倉ちゃんのような子になりたい。

 それが、この賢のセリフを一番最初に読んだ時の偽らざる感想だった。ニュートラルにものを見ようと努力して、性善か性悪かで前者を採ることならばできる。だけど、「いつも肩の力を抜けさせる」ことは、とてもむずかしい。だからこそ、彼女はこの物語で、海野先生さえも意図しない軌道を描いていったのだと思う。その意識しえないトリックに、読者は魅せられるのだろう。

 

 余談になるが、『回転銀河』の新装版6巻では、「ごしきひわ」の江梨奈の表紙に差し替えられてしまっている。一枚絵として綺麗だということに異論はない。だが、和倉ちゃんを6巻の表紙から外したという判断はいただけない。やっぱり自分は、刊行当時の誰か(読者)に挨拶をしている和倉ちゃんと、それに背を向ける優の表紙が、ふたりの関係性を雄弁に語っていて、とても、とても好きだ。

 

 

新装版 回転銀河(6) (KC KISS)

新装版 回転銀河(6) (KC KISS)

 

 

 

回転銀河 コミック 1-6巻セット (講談社コミックスキス)
 

 

宮城・仙台の豆屋『Nelson Coffee Roaster』の『三上洋さん応援セット』はおふざけから生まれた本格派コーヒーでした

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 三上洋氏といえば、2006年にかの堀江メール問題で証拠とされたメールが偽造だと喝破するなど、赫々たる実績をお持ちのITジャーナリストにしてセキュリティの大家だが、彼がこのネットの片隅でアイドル的な存在だということはあまり知られていない。

 

 その片隅はどこか? それはMastodonという分散型SNSの中なのだが、そもそも「Mastodonとは?」という人が多いと思われる。が、ここではその説明は省かせて頂く。ご関心のある方は、のえる氏のツイートを参照してもらいたい。

  

  

 Mastodonにおける三上氏は、その業績とは真逆のフレンドリーかつフリーダムなトゥート(Mastodonでは投稿についてこう呼ぶ)で親しまれているのだが、先般の新型コロナウイルス感染症の蔓延により、講演などの仕事が次々にキャンセルとなり、それを嘆いていたところに、やはりMastodonで活動している宮城・仙台のコーヒー豆製造業者『Nelson Coffee Roaster』『三上洋さん応援セット』なる製品を発売したのだ。

 

 しかも、なぜかそのセットを三上氏ご本人も購入している。謎すぎる展開だ。

 

 

 とはいえ、ブレンド100g×3袋で1680円ならお得な部類。というわけで、私も一セット購入してみたのだが、届いてみて唖然。なぜか三上氏の写真のラミネートが同封されていた。

 

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 それで、肝心のお味なのだけれど、これがなかなかに本格派なのだ。酸味がありつつも主張はせず、豆本来のフレッシュさと深みが同居している。舌を抜ける時に苦みが腔内を広がっていって、余韻が残らないうちに喉を過ぎていく。その後に鼻孔に甘めの香りが漂い、喉をすっと落ちていく。「焙煎には自信がある」とのことだが、この体験が家庭で楽しめるのならばかなり贅沢な気分にさせてくれるだろう。おふざけな企画ではあるけれど、手抜きはしないという「豆屋」の意地が感じられた。

 「ビターキャラメル」というだけあって、お菓子との相性も良い。実はセットにブルボン『アルフォート』が二箱入っていたのだけど、確かに一緒に頂くとクッキーとチョコレートのサンドの甘みが引き立たせる味で、お仕事中に常飲するというよりは、ちょっと一息入れたい時に飲むのがふさわしいように感じた。

 

 そんなわけで、個人的には濃いめに淹れるのがかなり気にいったので、また折を見て(三上氏抜きにして)このブレンドを注文してみたいと思う。

 なお、その後三上氏はYahoo!ニュース個人に楽天モバイルの記事を載せて、それがトピックスになっていた。これで多少は仕事難の埋め合わせをしたと思われるということを付け加えて、本稿を締めくくりたい。

 

news.yahoo.co.jp